梅雨も明け夏の秋田になりましたね。

4月末から始まった展覧会「例えば(天気の話をするように痛みについて話せれば)」もお陰様で終了となりました。このコラムでは、展覧会の裏話や私の個人的な視点などを、食べ物と一緒に(!)ゆるく記していければと思います。


 

「柔らかいキスと話し合いの机」

 

 

 海でキスを釣る。

私は、朝4時に起きてどんよりと暗い新屋浜に釣りに来ていた。朝の4時である。早起きが苦手なのに、これはもう来ただけで快挙だと思う。激しい追い風に煽られ、6月にも関わらずその日は凍えるように寒かった。新屋浜には何度か来たことがあるが、いつ来てもどんよりとした曇り空で、風が強く、寒くて、いつも拒絶されているようだと感じる。激しく波打つ海面に何度も何度も竿をふりながら、私は小さな女の子が海で遊ぶシーンを思い出していた。

 

 映画『リトル・ガール』では、7歳の女の子サシャが海で遊ぶシーンがある。新屋浜とは違い、映画の海は穏やかで、カラッと晴れわたり、サシャは家族と一緒に楽しそうに遊んでいた。キラキラと輝く楽しいシーンのはずが、背景に流れるピアノの音はなんだか不穏で、そのギャップに少しずつ緊張してしまう。これからサシャを待ち受ける荒波を予感させるからだ。

 サシャは学校でも自分らしく生活する権利について、教員側と争っていた。彼女の家族はみんなでサシャを守り、たくさんのキスで涙をぬぐい、サシャの意見を尊重しながら学校側との和解を求めた。印象的なのは、サシャの母親が何度も学校側との話し合いを提案し、調整し、実際にカウンセラーを交えての話し合いの場を作るものの、学校側の人間は姿を見せない。話し合いの場に、話したい相手が来ない。これまで「どう話し合うべきなのか」を展覧会でも考えて来たが、「どうやって話し合いの場まで持っていくのか」は抜け落ちていたように思う。自分の経験を振り返ってみても、きちんとした話し合いが始まらない事の方が多いのに。

 

 先日、戯曲『ねー』を読んだ。

この物語では、「話し合い」を疑うことが描かれている。第19回AAF戯曲賞に選ばれた作品で実際におきた性犯罪事件をモチーフにしているため暴力的なシーンもあり、苦手な方や気分がすぐれない方は読まずに穏やかな時間を多く過ごして欲しいと思うのだけど、興味のある方はこちらから読むことができる。身の回りに潜む理不尽な暴力によって生み出される被害と加害のねじれた関係が、神話のような要素も交えながら、奇妙なバランスで描かれていた。

この物語では、政治的秘密結社「話し合い」という名の集団が世界を支配している。この集団は定期的に集会を開くが、政治的秘密結社「話し合い」のメンバーが選んだ人間しか参加することができない。世界をよくするために開かれる(と言われている)集会には、参加資格がいるのだ。誰が話し合いに参加していて、参加者を選んだのは誰なのか。そして、話し合いから排除されているのは誰なのか。戯曲『ねー』は強烈に問いかける。

 

 展覧会「例えば(天気の話をするように痛みについて話せれば)」が7月3日に終了した。この展覧会には机の作品を展示している。机は壁を剥ぎ取ったパーツをつなぎ合わせて作られていて、脚が2本しかない。天井からロープで吊り下げることでバランスを保っている。この展覧会を考える上で話し合いは大きな要素だった。机はその象徴として選んだ。実際、展覧会会期中に行われた4回の「お話会」や「表現者のためのLGBTQ勉強会」などのイベントではこの机を参加者が囲みながら、たくさんの話をした。

当初、私達はセメントで作られた300キロほどの机を作ろうとしていた。どんなに部屋が破壊されようと、強風が吹こうと、時間が経とうと、微動だにしないような頑丈で重い机だ。結局そんな机は作らなかったんだけど、あれは願望だったんだと思う。話し合いというものが、どんな状況の中でもちゃんと立っていてくれて、尊厳を保ち、壊れず、壊されず、そこに不変にあるものであれば良いのに、という願望である。そうでないことを知っているが故に。政治家の話し合いで配られる冊子や、会社や学校など組織による圧力、ツイッターで広がるデマなどを目の当たりにして、私達は「話し合い」の脆さを知っている。私たちが作った机のように、少し触れただけでフラフラし、微妙なバランスで保たれた不安定なものだ。荒波の中では特に、みんなで掴んでおかなければ簡単に流され、砕け散ってしまう。

 

 小さなサシャが、荒波の中立っているのを想像する。ドキュメンタリー映画に小さな子供を登場させることの暴力性についてもここでは言及しなければならない。サシャを取り巻く理不尽な問題を映画として見せることで、監督は多くの人に現状を伝えることに成功していると思う。とても丁寧に家族を映している様子から、サシャのプライバシーを映画にすることの危うさについて、家族とサシャも含め話し合いがなされたのではないかと(私の希望ではあるが)想像する。しかし、例え7歳のサシャがOKだと言ったとしても、子供のプライベートな、しかもセクシャリティーに関する情報を映画にする暴力性は消えない。話し合いが何かの免罪符として使われることがあるからこそ、映画を制作する側も、見る側も決して忘れてはならないことだと思う。子供を誰かの学びのために傷つけたり、強くなることを強制するのは間違っている。

 

 新屋浜ではキスが10匹ほど釣れた。銀色の中に輝く金や緑がちらつく美しい魚だった。家に帰って天ぷらにする。身はふわふわで、こんなふわふわなものが、あの荒波の中で泳いでいたとは思えないほど、ふわふわで白く、優しかった。荒波に打ち勝つために、セメントのように頑丈に重くなる必要はないのかもしれない。しなやかに柔らかく、泳いでいくこともできるかもしれない。

私は小さな女の子が、金色に輝きながら荒波をすり抜け泳ぐ姿を想像する。

 

2022.07.15 中島